「群馬の森」は、群馬県高崎市にある大きな森林公園です。昭和43年、政府主催の「明治百年記念事業」の一環として建設されました。関越自動車道「高崎玉村インター」から約10分の場所に位置します。
中央に芝生の大広場があり、取り囲むようにぐるりと一周遊歩道が整備され、近隣住民の憩いの場となっています。立ち並ぶ巨木が深い緑を構成し、とても美しい公園です。
「群馬の森」は軍事施設の跡地
この場所はかつて、「陸軍岩鼻火薬製造所」という国の軍事施設でした。建設は明治15年(1882年)、以来終戦まで60年以上にわたって火薬工場として使用されました。軍事施設のため、その敷地の広さは長い間明らかにされてきませんでしたが、火薬の増産に伴う設備の増強、相次ぐ敷地拡張により、最終的には32万5千坪(107万平米)もの広さがあったといわれています。
戦後、その広大な敷地は3分割され、北から日本原子力研究所、「群馬の森」森林公園、日本化薬株式会社となりました。
火薬製造所の建造物が残る
公園建設にあたり、火薬製造所の建築物や工作物およそ150棟が解体・撤去されました。その一部が、今でも公園内に残ります。建物、トンネル、境界塀。それから土塁。爆発事故に備えた高さ4~5メートルの土塁は、公園の至るところに見られます。
公園の南側(日本化薬側)、遊歩道のすぐ脇に、トンネルや当時の火薬室を見ることができます。屋根のトタンは腐り、はがれ、窓も割れて完全な廃墟となっています。覆い隠すかのように樹木が生い茂り、知らない密林に迷い込んだような、見てはいけないものを見てしまったような、異様な雰囲気を醸し出しています。
日本で唯一のダイナマイト工場
岩鼻火薬製造所では、通常の火薬以外に、ダイナマイトが製造されていました。日本で唯一のダイナマイト工場で、その証として、「ダイナマイト碑」が建てられています。高さ3メートル近い巨大な石碑です。
碑の裏側には、その歴史が刻まれています。明治13年に建設が始まり、明治38年(1905年)にダイナマイトの製造を開始したこと、昭和20年(1945年)の終戦まで64年間にわたり火薬の製造が行われたことなどが記されています。
公園最深部に「射場跡」
公園の最深部には、射場跡(しゃじょうあと)が残ります。射場跡というのは、高射砲や機関銃の性能テストに使われた場所のことで、発射地点から着弾地点まで、長いトンネル型の構造物となっています。
群馬の森の最深部、立入禁止の金網の向こう側、この巨大なコンクリートの工作物が横たわります。運良く中に入れてもらうことができたので、間近で撮影してきました。「土管」の全長はおよそ30~40メートル、高さは4メートルくらいでしょうか。
遊歩道から見える廃墟郡もそうですが、戦争遺産というのは、その陰惨な時代を経たからか、まとう空気感がどうにも無気味です。この土管も、ひっそりと息を殺す生き物のようで、妖気のようなものを感じました。
射場跡の近くには、大きな丸い石がオブジェとしていくつも埋め込まれていますが、これもおそらく戦争遺産で、砲台だと思われます。
不自然な整地「わんぱくの丘」
それからもう一箇所、尋常でないくらい怖い感じなのが「わんぱくの丘」です。公園内の案内図(現在)と、戦争当時の図面を載せておきます。独特の「田」型の地形が、ほぼそのまま形を残します。
「田」型の実際の写真がこちら。盛り土に沿うよう、整然とシラカシ郡が植えられています。
それから「わんぱくの丘」の外側。尋常でない量のシラカシが太陽の光を遮り、おそらく群馬の森で一番薄暗い場所となっています。
これほど植え込まれている理由はもちろん「防火」のため。生木は燃えにくく、火の粉や熱風を遮る効果があり、特にシラカシのような常緑広葉樹は火に強いとされますが・・。
一体この場所で何が行われていたのか、どんな実験が日常的に行われていたのか。廃墟群や射場跡と同じで、戦争の跡が色濃く残る場所なのです。
公園外の「火薬製造所跡」
日本化薬の門塀
群馬の森の南側に、日本化薬株式会社があります。この敷地を取り囲むように残っているのが、当時の門や塀。ぐるりと歩いてみると、その敷地の尋常でない広さがわかります。
殉職者の碑
ここはたぶん、日本化薬の社有地になりますが、小さな祠と「殉職者の碑」が残ります。岩鼻火薬製造所は、その性質上、実際に爆発事故が数度起きており、50名弱が亡くなっています。
【参考文献】
『陸軍岩鼻火薬製造所の歴史』菊池 実 著(みやま文庫 2007)
高崎市のホームページにも「岩鼻火薬製造所」の情報が若干残っています。