明治時代、その急勾配のため「難攻不落」と呼ばれた碓氷峠。横川~軽井沢間(碓氷線)の鉄道敷設工事は困難を極めました。蒸気機関車から電気機関車へ、アプト式から粘着運転へと、実に104年の歴史を刻んだ碓氷線。1997年の廃線後には、一部区間が遊歩道として整備されました。「アプトの道」です。
その急勾配が見たい、鉄道跡が見たい、トンネル郡が見たい。ということで「アプトの道」を歩いてきました。
トンネルすごかった・・!!!
碓氷峠とアプト式鉄道
まずは「アプトの道」の名前の由来から・・
難攻不落の急峻「碓氷峠」
碓氷峠は、横川駅(群馬県安中市)と軽井沢駅(長野県北佐久郡)の間に位置する峠です。明治時代に計画された本州横断鉄道の中間にありましたが、その急勾配のため長らく放置されていた区間です。当時の建設技術では敷設不可能、克服不可能とされていました。
その最大勾配は66.7‰(パーミル)
碓氷峠といえば必ず出てくる数字ですが、これは水平距離で1000メートル進む間に、66.7メートル登らなければならないことを示します。具体的にどのくらいの角度かというと、たとえば全長280メートルの車両(14両)なら、先頭と最後尾で約16メートルの高低差が生じる計算です。16メートルといえば建物5階ぶん、相当な急角度だったことがわかります。
アプト式鉄道
この急勾配を登るために、特殊な鉄道が敷かれました。それが「アプト式」と呼ばれる方式で、レールの中央にノコギリ状のギザギザとしたレール(ラックレール)を加え、機関車の歯車と噛み合わせて滑り止めとしました。ドイツの登山鉄道で開発された技術です。
開発者の名前がアプトさん
横川~軽井沢間(碓氷線)の鉄道敷設工事は、明治24年(1891年)3月に始まり、明治25年12月に終了。工事期間はわずかに1年9カ月、およそ11.2キロの区間に「18の橋梁」と「26のトンネル」が建設されました。
500人が殉職したといわれる壮絶な大工事でした
その後、明治26年(1893)~昭和38年(1963)までの70年間、アプト式での運転が行われました。
「アプトの道」とは?
蒸気機関車から電気機関車へ、アプト式から粘着運転へと、時代とともに進化を遂げた碓氷線(横川~軽井沢間)でしたが、惜しまれつつも平成9年(1997)に廃線となりました。
その鉄道跡が遊歩道として整備され、「アプトの道」となりました。横川駅から熊ノ平駅まで、10個のトンネルを見ることができます。
絶対歩いてみたい!!
トンネル通りたい!!
「アプトの道」へGO!
群馬県高崎市から国道18号を西へ一直線。小一時間ほどで横川に到着です。
横川駅前「おぎのや」
横川駅前「おぎのや」で釜飯を食べてから、アプトの道に入ります。
やっぱり釜飯は食べないと!
アプトの道起点
「鉄道文化むら」のすぐ脇から、アプトの道に入ることができます。
案内の看板で、「峠の湯」や「碓氷湖」が休憩ポイントになっているのがわかります。
丸山ストレート
アプトの道に入ってすぐの大きなカーブを過ぎると、あとは丸山変電所まで一直線。この直線区間は「丸山ストレート」と呼ばれていて、(丸山変電所から先の)急勾配に対応するための加速区間でした。
見晴らし抜群で気持ちがいい!
丸山変電所
このまっすぐな道を歩いていくと、丸山変電所があります。明治45年(1912)の電化に伴い、建設されました。
横川火力発電所が送られてきた交流6600ボルトを、この変電所で直流650ボルトに変換し、サードレール(第三軌条)を介して電気機関車のモーターに送りました。
丸山変電所は2棟編成で、1棟が変圧器・変流器があった「機械室」、もう1棟が電気を供給(充電)するための「蓄電池室」でした。
ほぼ廃墟だったのが、2002年の復元工事で当時の姿に!!
重厚感があって超立派!
ちなみに置かれていたという変流器がこちら。高さ1.5メートルくらいの大きな機械です。
ダイナモ?ダイナモなの?
峠の湯
丸山変電所から更に10分くらい歩いて行って、最初の休憩ポイント「峠の湯」に到着です。
超有名な「めがね橋」までは、あと40分(# ゚Д゚)?!
峠の湯までは、実は車で来られます!!
というか、峠の湯から歩く人のほうが多い・・