死の川となった「渡良瀬川」
足尾銅山鉱毒事件は、日本初の「公害問題」といわれる。
足尾銅山からの鉱毒で、めぐみの川だった渡良瀬川(わたらせがわ)は、「死の川」となった。魚も草木も作物も、みな死んだ。繰り返される乱伐と、吹き出す亜硫酸ガスで、一面の山がハゲ山となった。山は保水力を失い、ひとたび雨が降れば一気に増水し、大洪水となった。流域の田畑は汚染された泥で覆われ、何も生えず、何も植えられず、農民の生活は困窮していった。
明治政府と闘った「田中正造」
この鉱毒問題を取り上げたのが、衆議院議員の田中正造だった。正造は10年の長きにわたり、議会で足尾銅山の鉱業停止を絶叫したが、遂に聞き届けられることはなかった。
「殖産興業」「富国強兵」を掲げていた明治政府は、国の成長産業である足尾銅山を完全に擁護していた。農商務大臣の陸奥宗光と、足尾銅山の経営者「古河市兵衛」が縁戚関係だったのもあり、完全に野放し状態だった。その政府に正造はあきれ、もはや意味なしと衆議院議員を辞職する。自分の命を懸けて天皇への直訴を試みるが、直訴状を渡す前に取り押さえられ、その声が届くことはなかった。
渡良瀬遊水地と「谷中村」
繰り返す大洪水に、政府は貯水池の建設を決定する。その槍玉として掲がったのが「谷中村(やなかむら)」であった。谷中村の村民は続々と立ち退き始めるが、18戸百余人は最後まで残留した。その18戸を、政府は「土地収用法」の名の元に強制破壊した。家主の目の前でバラバラにするという、残酷非道な仕打ちであった。住民は、竹と筵(むしろ)で作ったような、小屋ともいえない小屋で暮らした。正造は、谷中住民として暮らしながら、河川の調査にいそしんでいたが、道中で倒れ、亡くなってしまう。土地収用法の執行から6年、正造72歳だった。
その後しばらくして残留民は移住となり、谷中村は遊水地の底に沈んだ。1918年(大正7)のことだった。
100年公害
恐ろしいのは、この一連のストーリーの中、鉱毒問題は何も解決されなかったということだ。古河も政府も、その責任を認めなかった。
政府が足尾銅山を加害者と認め、古河が損害賠償請求に応じたのは1974年(昭和49)。田中正造が議会で初めて鉱毒問題を取り上げたのが1891年(明治24)、それを「足尾銅山鉱毒事件」の始まりとするならば、実に解決まで83年の月日を経たことになる。「100年公害」と呼ばれる所以である。
参考資料
- 『田中正造の生涯』林 竹二(講談社現代新書、1976)
- 『田中正造』堀切 リエ(あかね書房、2016)
- 『田中正造』佐江 衆一(岩波ジュニア新書、1993)
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