足尾銅山で見たかったもの
足尾銅山で見たかった場所はいくつかある。
まずは「本山(ほんざん)製錬所」。「足尾銅山鉱毒事件」といえば、亜硫酸ガス、ハゲ山、渡良瀬川の汚染で、本山製錬所は、まさにその元凶となった場所。
ついで「龍蔵寺」。坑夫の墓が数多く残る寺で、その写真(※1)を見た時のインパクトが強烈で忘れられない。
それから「ハゲ山」。有志の手による植林で、だいぶ緑が戻っているそうだが、実際どうなのかという素朴な疑問。
最後に「渡良瀬川」。鉱毒で「死の川」と呼ばれた川は、今どうなっているのか。
「足尾銅山観光」の通洞坑は、一般的な観光名所として立ち寄ったけれど、そもそも趣旨が違う。
見学ルート
「足尾銅山観光」(通洞坑)から、県道250号をそのまま北上していく。「足尾駅」「古河掛水倶楽部」を過ぎて、「古河橋」「本山製錬所」「龍蔵寺」「足尾砂防ダム」と進んだ。
足尾駅
足尾銅山で使われていた気動車、硫酸のタンク車などが展示されている。
古河掛水倶楽部
「古河掛水倶楽部」は、貴賓客の接待や宿泊などに使われていた場所で、足尾銅山の迎賓館。冬季休業中(※2)のため鑑賞できなかったが、そのすぐ隣で「足尾銅山記念館」の建設工事が行われていた(令和7年5月に開館予定)。
足尾の町とハゲ山
「間藤(まとう)」駅を過ぎた辺りから、足尾の町に入る。正面に見えるモコモコした山は「松木山」。足尾銅山の吐き出す亜硫酸ガスで、ハゲ山になってしまった。現在は「大平山」という。
足尾銅山製錬所
古河橋
日本最古の鉄橋のひとつ「古河橋」。完成は1890年(明治23)で、電気鉄道が敷設されていたという。傷みが激しく、通行はできない。長さ48.5メートル、幅4.8メートル。
鉄橋の背後にある大きな建物は、製錬所に付属する「貯蔵庫」。トタン板が吹き飛び、廃墟感がひどい。
足尾銅山製錬所
3つ並んだ硫酸タンクの更に上の段に、製錬所は建てられていた。破損・倒壊がひどく、すでに撤去されてしまっている。
龍蔵寺
坑夫の墓が並ぶ「龍蔵寺」。坑内の作業は過酷で、若くして命を落とした者も多かったという。
異様に迫力があるのは、すべての墓が同じ方向を向いているからだ。渡良瀬川(松木川)を挟み、製錬所と真っ向から対峙する。
ピラミッド型の墓塔は、足尾ダムが建設される際、水没地域の墓を集めたものだという。
足尾砂防ダム
「足尾砂防堰堤(えんてい)」と呼ばれる。貯水目的ではなく、土石流による土砂災害防止のためのダム。
保水力を失ったハゲ山により、渡良瀬川流域では大規模な洪水、土砂災害が繰り返され、昭和の初めには砂防ダムの計画が持ち上がっていた。その後長い間、着工に移されなかったが、カスリーン台風(1947)をきっかけに工事が開始、1955年(昭和29)に完成した。高さ39メートル、堰堤長204メートルの日本最大規模の砂防ダムとなっている。
来訪記
訪れたのは12月初旬。以前に書いた「足尾銅山観光」の続きとなる。朝イチで「足尾銅山観光」通洞坑に行き、上記のルートを辿り、2時ごろ足尾ダムを離れ、日光東照宮へと向かった。
正直なところスケジュールミス。「足尾歴史館」「通洞変電所」「通洞選鉱所」「小滝坑口」「鉱山神社」など見どころは多かったのにスルーしてしまった。ハゲ山と龍蔵寺で満足してしまったのもある。「足尾銅山」を見るならば、やはり一通りは押さえておくべきだった。
足尾銅山の傷跡は今も残る。銅山の成長と共に、家も村も山も川も死んでしまった。その痛々しさ、生々しさは確実に残っている。ただ見ようとして見に行かなければ、気付かないかもしれない。もう少し勉強して、また春になったら出直そうと思う。
(※1)『フォト・ドキュメント 足尾銅山 1969~1988』神山勝三(築地書館 1989)
(※2)古河掛水俱楽部や、足尾砂防ダムにある「環境学習センター」など、冬季休業期間(12月~3月)を設けているところが多い。行く前には必ずホームページでチェックしておきたい。
【参考】日光市のホームページ
足尾銅山については、栃木県日光市のホームページが詳しい。PDFファイルも充実しているので、興味のある方は是非。
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