MENU

田中正造ゆかりの地を歩く【4】田中正造記念館

田中正造記念館
田中正造記念館

田中正造記念館は、群馬県館林市にある。手作りの資料が、パネルに展示されており、一周すると鉱毒事件の全貌がわかるように工夫されている。

使われている写真やイラストは、かなりマニアックだ。正造の書いた「関宿」の解説図や、谷中村の「強制廃村」後の写真など、おそらく他では見ることができない。その中から特に興味深いものを紹介したいと思う。

田中正造記念館
目次

足尾銅山の鉱毒

足尾銅山から出た「鉱毒」とは何か。具体的に何が排出されていたのか、この図を見ると、よくわかる。

田中正造記念館の展示。

鉱石から銅を取り出すためには、「選鉱」「製錬」の工程を経る。採掘された鉱石は、そのほとんどが不要物のため、「選鉱」の段階で捨てられてしまう。銅や鉛などの鉱床には、鉄やヒ素、硫黄などが含まれており、その捨て石(採掘屑)が大量に渡良瀬川に投棄されていた。

「製錬」は鉱石を加熱して溶かし、比重で「銅」と「鉄」に分離する作業をいう。この過程で、「亜硫酸ガス」「亜ヒ酸ガス」「鉱滓(カラミ)」が発生した。放出されたガスは、上流の山々をことごとくハゲ山にし、「カラミ」は雨と共に大量に渡良瀬川に流れ込んだ。「亜ヒ酸」は足尾銅山の主要製品のひとつで、殺鼠剤、農薬、防腐剤などに使われた。

田中正造記念館、鉱毒の写真
銅を抽出する過程で出た大量のカラミ。堆積場に積み上げられ、雨と共に渡良瀬川に流れ込んだ。
田中正造記念館の展示。
足尾銅山から吹き出る亜硫酸ガス。

正造筆の関宿周辺図

東京へ鉱毒が流れ込まないように、政府は「関宿(せきやど)」で利根川をせきとめようとしていた。木や石で川幅を狭めていくこの工事は「棒出し」と呼ばれた。

この「棒出し」で、徳川時代に30間(約54メートル)あった川幅が9間(約16メートル)になってしまったこと、そのせいで渡良瀬川に水が逆流し、被害地の被害が更に大きくなっていると正造は指摘していた。こういった河川調査を、正造は身体が動かなくなるまで続けた。

田中正造記念館の展示
田中正造記念館の展示
「棒出し」の工事の様子。

令和・足尾二十景

前橋市在住の「堀泰雄」氏が描いたスケッチ。パネルの隣の部屋に、20~30枚展示されていた。「足尾の見どころ」を描いた絵は、優しい色遣いで温かみがある。説明文はリアルで、そのギャップも面白い。渡良瀬遊水地へ行くため時間がとれなかったが、一枚一枚ゆっくり見たかった。本としてまとめられているそうなので、次回訪れた際には購入しようと思う。

田中正造記念館
田中正造記念館

田中正造記念館の基本情報

田中正造記念館の展示
「足尾銅山と鉱毒被害地」の立体模型。
田中正造記念館の展示
館内の本棚。足尾銅山と田中正造の本が大量に並ぶ。

参考資料

  • 田中正造記念館展示資料

群馬の旅なら・・

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次