田中正造記念館は、群馬県館林市にある。手作りの資料が、パネルに展示されており、一周すると鉱毒事件の全貌がわかるように工夫されている。
使われている写真やイラストは、かなりマニアックだ。正造の書いた「関宿」の解説図や、谷中村の「強制廃村」後の写真など、おそらく他では見ることができない。その中から特に興味深いものを紹介したいと思う。
足尾銅山の鉱毒
足尾銅山から出た「鉱毒」とは何か。具体的に何が排出されていたのか、この図を見ると、よくわかる。
鉱石から銅を取り出すためには、「選鉱」「製錬」の工程を経る。採掘された鉱石は、そのほとんどが不要物のため、「選鉱」の段階で捨てられてしまう。銅や鉛などの鉱床には、鉄やヒ素、硫黄などが含まれており、その捨て石(採掘屑)が大量に渡良瀬川に投棄されていた。
「製錬」は鉱石を加熱して溶かし、比重で「銅」と「鉄」に分離する作業をいう。この過程で、「亜硫酸ガス」「亜ヒ酸ガス」「鉱滓(カラミ)」が発生した。放出されたガスは、上流の山々をことごとくハゲ山にし、「カラミ」は雨と共に大量に渡良瀬川に流れ込んだ。「亜ヒ酸」は足尾銅山の主要製品のひとつで、殺鼠剤、農薬、防腐剤などに使われた。
正造筆の関宿周辺図
東京へ鉱毒が流れ込まないように、政府は「関宿(せきやど)」で利根川をせきとめようとしていた。木や石で川幅を狭めていくこの工事は「棒出し」と呼ばれた。
この「棒出し」で、徳川時代に30間(約54メートル)あった川幅が9間(約16メートル)になってしまったこと、そのせいで渡良瀬川に水が逆流し、被害地の被害が更に大きくなっていると正造は指摘していた。こういった河川調査を、正造は身体が動かなくなるまで続けた。
令和・足尾二十景
前橋市在住の「堀泰雄」氏が描いたスケッチ。パネルの隣の部屋に、20~30枚展示されていた。「足尾の見どころ」を描いた絵は、優しい色遣いで温かみがある。説明文はリアルで、そのギャップも面白い。渡良瀬遊水地へ行くため時間がとれなかったが、一枚一枚ゆっくり見たかった。本としてまとめられているそうなので、次回訪れた際には購入しようと思う。
田中正造記念館の基本情報
- 正式名称:足尾鉱毒事件田中正造記念館
- 住所:群馬県館林市大手町6-50
- 電話:0276-75-8000
- URL:http://www.npo-tanakashozo.com/index.html
参考資料
- 田中正造記念館展示資料
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