「田中正造ゆかりの博物館」として外すことができないのが、「佐野市郷土博物館」だ。正造が身に付けていた「蓑と笠」、わずかばかりの「遺品」は必見だが、他にも直筆の掛け軸、被害地の見取図、谷中村の現況を綴ったハガキなど貴重な展示物を見ることができる。
直訴状(復元)
天皇への直訴状。原文は幸徳秋水が執筆し、直訴当日の朝、正造自らが加筆訂正した。訂正印だらけ加筆だらけで、決して見栄えは良くないが、天皇に間違いのない事実を伝えようと、時間ギリギリまで修正を行ったという。正造の誠実さ、几帳面さがそのまま伝わってくる書状だ。
正造は、足尾銅山が原因で甚大な鉱毒被害が起きていること、回復するには銅山の鉱業停止しかないが、自分の声は届かないのだと訴え、天皇から議会へ直接命じてほしいと懇願している。実物は相当の長文にのぼる。
谷中村「強制廃村」の新聞記事
東京への鉱毒被害を防止するため、政府は遊水地の建設を決定していた。その候補地が「谷中村(やなかむら)」だった。
いつまでも立ち退かない住民に、栃木県知事は苛立ちを隠せず、「これ以上は断じて延期せず」「期限までに立ち退かなければ、人夫300人を差し向けて一斉に強制破壊する」と最終通告した。
新聞が伝えるのは、その時の様子。
正造の遺品
正造は最期まで、着の身着のまま、笠をかぶり、蓑を背負い、河川調査とその費用供出のために各地を訪ね歩いていた。私財はとっくに使い果たし、最期に持っていたのは、ずた袋ひとつだった。中に入っていたのは、河川調査の資料、日記帳、聖書、小石。財産と呼べるようなものはなかった。
来訪記
鉱毒問題は、「谷中村の廃村」で、ひとつのクライマックスを迎える。政府は遊水地の建設で解決としたが、その後も鉱毒や洪水の被害は止まなかった。足尾銅山は守られ、人民は守られなかった。一貫して犠牲になったのは、「人と自然」の方であった。
声は届かず、情況も変わらないまま、正造は最期を迎える。遺品は物哀しく、無念さが伝わってくるようだ。
佐野市郷土博物館の基本情報
住所:栃木県佐野市大橋町2047
電話:0283-22-5111
URL:https://www.city.sano.lg.jp/sp/kyodohakubutsukan/index.html
※「田中正造展示室」の展示物は、すべて撮影禁止となる。
参考資料
博物館内展示、パンフレット
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