MENU

田中正造ゆかりの地を歩く【3】雲龍寺~川俣事件

足尾銅山、雲龍寺~川俣事件

雲龍寺は、「鉱毒事務所」が置かれていたことで知られる。「押出し(おしだし)」と呼ばれる請願活動の拠点となった場所で、栃木県佐野市と群馬県館林市の県境、渡良瀬川のすぐ脇に位置する。鉱毒激甚地のほぼ中央で、栃木・群馬両県の農民が集まるのに都合が良かったようだ。

足尾銅山、雲龍寺~川俣事件
目次

鉱毒事務所と大挙請願

雲龍寺に鉱毒事務所が設置されたのは1896年(明治29)、渡良瀬川の大洪水で鉱毒被害が深刻となった年だ。土石流は栃木、群馬、埼玉、千葉、東京まで流れ込み、被害は12万戸50万人にも及んだ。

その10年も前から、大洪水は起きていた。乱伐と煙害によるハゲ山は少しの保水力も持たず、ひとたび雨が降れば一気に増水し、毒土と共に激流となって駆けくだった。魚は死に、作物は枯れ、飲める水すらなくなった。辺り一面、毒土で覆われ、荒野となった。

これほどの被害にかかわらず、行政も銅山も対策をとることはなかった。それどころか、二束三文のお金を渡して「永久に苦情を申し立てない」という念書を取って回っていた。

拡大するばかりの被害に、ついに農民たちの怒りは爆発し、「足尾銅山の鉱業停止」を求めて請願活動が始まった。この大挙上京請願は「押出し」と呼ばれ、雲龍寺の「鉱毒事務所」は、活動の中心拠点であり出発地点だった。

足尾銅山、雲龍寺~川俣事件

押出しの経緯

雲龍寺から東京まで片道80キロ。これだけの距離を歩いて、農民たちは請願に向かった。

第1回、第2回押出し

第1回、第2回の押出しは1897年(明治30)3月。農民たちの声を受けた当時の農商務大臣「榎本武揚」は、初めて鉱毒被害地を訪れた。視察から戻った榎本の言で、鉱毒委員会が設置されるが、当の榎本はすぐに辞任した。理由は明らかにされていないが、想像を絶する被害地の悲惨さに、少なからずショックを受けたといわれている。

この年、足尾銅山に大規模な「鉱毒予防工事命令」が出されたが、その後も大洪水が治まることはなく、鉱毒は流れ続けた。

第3回押出し

3回目の押出しは1898年(明治31)9月。2500人の大挙に、騒ぎをおそれた正造は、農民たちに戻るよう説得した。今回は自分が議会に申し付けるからと、もしも聞き届けられなければ、2度とは止めない、逆に進退を共にして戦うと、正造は約束した(「保木間の誓い」)。代表50人を残して、農民たちは帰途についた。

足尾銅山、雲龍寺~川俣事件
雲龍寺の「足尾鉱毒事件被告之碑」

第4回押出し~川俣事件

4回目の押出しは、1900年(明治33)2月に行われた。請願へ向った農民は1万人ともいわれている。警官・憲兵隊およそ300人が川岸で待ち構えており、丸腰の農民にサーベルで襲いかかった。およそ100人が逮捕され、その半分は「兇徒しょう集罪」として起訴された。この多数の犠牲者を出した大事件が、「川俣事件」である。

足尾銅山の鉱毒による窮状。その被害を訴え、解決を望んだだけの農民が、凶暴な群衆とみなされ、投獄された。人民を守るはずの国家が、逆に人民に暴行を働くという、前代未聞、劣悪非道な事件だった。

川俣事件を受け、正造は議会で「亡国演説」を行った。「亡国に至るを知らざれば即ち亡国なり」。すでに国家は機能していない、滅んでいるのだと絶叫したが、なんの反応も返ってこなかった。正造は議会に残る意味を見いだせず、議員を辞職する。

ちなみに同年、足尾銅山の経営者「古河市兵衛」は、その功績を称えられ「従五位」を授かった。

川俣事件記念碑

足尾銅山、雲龍寺~川俣事件
足尾銅山、雲龍寺~川俣事件

事件の現場となった「川俣」は、群馬県邑楽郡明和町にある。事件発生から100年を記念して、2000年(平成12)に記念碑が建てられた。

「川俣事件記念碑」の場所や碑文は「群馬県明和町」の公式ホームページが詳しい。
https://www.town.meiwa.gunma.jp/life/soshiki/seisaku/7/6/704.html

雲龍寺の基本情報

住所:群馬県館林市下早川田町(しもさがわだまち)1896
電話:0276-73-4163

参考資料

『田中正造の生涯』林 竹二(講談社現代新書、1976)
『田中正造』佐江 衆一(岩波ジュニア新書、1993)

【PR】群馬の旅なら・・

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次