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田中正造ゆかりの地を歩く【1】田中正造旧宅

田中正造旧宅の母屋。正造直筆の掛け軸。
目次

田中正造宅を訪れた理由

栃木県佐野市、田中正造宅
早朝のため、まだ開館前。扉が閉じられている

足尾銅山を知るということは、鉱毒事件を知り、田中正造を知ることだと思う。前回、足尾銅山を訪れるにあたり、田中正造の簡単な伝記を3冊くらい読んで、その生き方に感動してしまった。

「すべてを投げ打って人民の力になる」と決意した正造は、その言葉通りに生きて、死んだ。その熱い思いや信条、農民への接し方や尽くし方は、とても真似できるような次元ではない。現地を訪れれば、多少なりとも、その人物像が見えるかもしれないと思った。

なので今回は、田中正造の足跡をたどる旅である。

田中正造の略歴

田中正造は、1841年(天保12)に下野国安蘇郡小中村(現:佐野市小中町)に生まれた。若い頃より正義感が強く、小中村の名主や江刺県(秋田県)の役人時代から、弱い立場の「農民」に寄り添うことを信条としてきた。投獄されることがあっても、上役の不正や悪事に屈することなく、自らの信念を貫き通した。

正造は38歳の時に栃木県の区会議員となり、本格的に政治活動を始める。「すべてを投げ打って人民の力になる」と、相応の覚悟で臨んだ。

県会議員を経て、衆議院議員となった正造は、すぐに大きな問題を抱えることになる。「足尾銅山」だ。流れ出す鉱毒が、山や川を汚し、農民を苦しませることに、正造は耐えられなかった。自然を愛し、農民を愛していたからだ。

正造は代議士時代の10年間、ずっと「足尾銅山の鉱業停止」を訴えた。叶わないと知ると、自らの命を懸けて、天皇へ直訴した。直訴も叶わず、谷中村の遊水地化が決定されると、自ら谷中村へ入り、農民と共に闘った。正造は自分の利得を省みることなく、その生涯すべてを「被害地農民の救済」に費やしたのである。

しかし正造の願いが叶えられることはなく、1913年(大正2)、73歳で生涯を閉じることになる。惣宗寺で行われた葬儀には、数万人が集まり、涙したという。

その偉業は、没後110年を経た今でも語り継がれている。

隠居所

栃木県佐野市、田中正造宅

道路に面した建物が、隠居所だ。正造が、父母のために建てた家で、父母とカツ夫人が3人で暮らしていたといわれている。生前に小中村に寄付されており、その後、稽古場や公民館として使われていた建物で、たびたび修理が行われている。昭和57年に一般公開され、平成に入ってから本格的な保存整備工事が行われた。当時の姿に復元されているという。

田中正造宅の隠居所

2階に飾られていた額縁。正造の有名な言葉。「真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし」。

母屋

正造が生まれ育った家。立派な太い梁、すのこやよしずで組み上げられた天井が特長。診療所としても使われていたという。

田中正造宅の母屋
田中正造宅の母屋
田中正造旧宅の母屋。
自筆で「田中正造」と書かれた籐椅子
田中正造旧宅の母屋。正造直筆の掛け軸。
正造直筆の掛け軸
田中正造旧宅の母屋

手前の「さるすべりの木」は、正造と共に過ごしたという大変な古木だ。大半が空洞で痛々しいが、まだ花をつけるという。

来訪記

お願いすれば、ガイドの女性が、住居や生い立ちについて、ひと通り説明してくれる。1階の井戸跡、2階の低い天井、母屋の独特な天井や、椅子に書いた名前、葬儀の詳細など、細かな所を案内してくれた。

正造が生まれ育ったという母屋が、だんぜん興味深い。目の前を横切る太い梁は見応えがあるが、「名主」の名にそぐわない小さな家で、「ヒロマ」「ザシキ」「ネドコ」の3部屋しかない。質素な暮らしぶりであったようだ。

正造直筆の掛け軸は、文字に勢いがあり、力強い。貴重なものだと思うが、開け放した障子から風が吹き込み、バタバタと激しく揺れていた。

生家の空気を感じて、少しだけ、ほんの少しだけ、田中正造という人物に近づけたような気がした。

田中正造旧宅。
隠居所の入口に、少しだけお土産が並べられている。

田中正造旧宅の基本情報

参考資料

「田中正造旧宅」の、展示、配布資料に基づく

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