器械の動力で製糸作業を行うため、大規模な動力設備が設置された。西繭倉庫2階のベランダから、煙突、蒸気釜所、鉄水槽と、その全貌を見渡すことができる。
蒸気釜所
蒸気釜所には、蒸気釜(ボイラー)が6釜設置されていた。1釜がブリュナ・エンジン、残りは煮繭(しゃけん)用として使われた。ブリュナ・エンジン本体も蒸気釜所に置かれていた。
ブリュナ・エンジン
横型単気筒蒸気機関
創業当時の動力は蒸気だった。燃料は石炭。お湯を沸かして蒸気を発生させ、その圧力でピストンを上下運動させ、クランクの回転運動に変えていた。この変換運動を行ったのがブリュナ・エンジンだ。繰糸所内の繰糸器・揚返器は、このエンジンが回していた。
説明書きには、このエンジンが「明治5年から大正9年(1920年)に電気が登場するまで、約50年間使われていた」と記載されている。日本初の電灯は明治15年(1882年)に銀座に灯るが、工場の動力として一般化するのは、それから40年も後ということになる。蒸気の時代は想像以上に長かった。
復元機の製作
展示されているのは、当時の資料を元に製作した復元機だ。「38社の企業が参加し、3次元測定器で図面を起こし、現在の金属加工技術(旋盤やマシニング)を用いて」製作された。「平成28年(2016年)の完成」とあるので、富岡製糸場の創業(1872年)から実に144年の時を経て蘇ったことになる。
鉄水槽
煮繭や蒸気機関には大量の水が必要だったため、鉄水槽が設置された。直径約15メートル、深さ約2.5メートル、貯水量は約400トンだった。
この鉄水槽は明治8年(1875年)に横浜製造所で作られた。横浜製造所は、横須賀造船所(製鉄所)の弟分で、艦船の部品などを製造していた。この鉄水槽も「リベット接合」という造船技術が使われているため、「軍艦」色の濃い仕上がりとなっている。鉄の板同士を重ねて穴を開け、「リベット」と呼ばれる特殊な釘を打ち込んで固定した。横浜から鉄板を運び、製糸場で組み立てたといわれている。
(了)
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