江戸時代「寛永通宝2000万枚」
当時はまだ人力で、セット(ハンマー)とタガネというわずかな道具で掘り進んだ。
暗くて冷たい穴倉で、硬い岩を割り続け、気が遠くなるような巨大空間を切り開いた。
すでに江戸の頃より、大量の銅が採掘されている。江戸城や日光東照宮の銅瓦などに使われ、輸出もさかんに行われた。「鋳銭座(ちゅうせんざ)」が設けられたのは1742年(寛保2年)、寛永通宝(足尾銭)が2000万枚製造されたという。
足尾の町は繁栄を極めるが、江戸の終わりごろに向かい、次第に銅の産出量が少なくなっていく。
明治時代「古河市兵衛の登場」
明治に入り、官営事業は次々に民間へ払い下げられていく。古河市兵衛という商人が、廃山同様の足尾銅山を買い受けたのは1877年(明治10年)。坑道内への軌道の敷設、ポンプの設置など、次々と効率化が図られ、1883年には早くもダイナマイトの発破が登場する。
1884年には大鉱脈が発見され、産銅量は飛躍的に増加。この頃から渡良瀬川の魚が死滅、周りの山々はハゲ山になっていく。足尾銅山鉱毒事件の始まりである。
足尾銅山は次々と最新技術を取り入れる。削岩機、軽便鉄道、電話。1890年には間藤に水力発電所が建設され、坑内の電化が進んだ。電気巻揚機、架空鉄索(ロープウェイ)が整備され、運搬力が向上。
1891年(明治24年)には産銅高が6000トンとなり、国内の40%以上を占める日本一の銅山となった。
大正時代「足尾銅山の黄金時代」
「足尾鉱毒事件」の激化をよそに、足尾銅山は成長を続ける。
大正元年、足尾鉄道(桐生~足尾間)が開通(現在の「わたらせ渓谷鉄道」)。大正3年、国産初の足尾式削岩機が登場。大正6年には、足尾の誇る巨大鉱床「河鹿(かじか)」の採掘が本格化する。
1912年(大正元年)から1938年(昭和13)年まで、年間1万トン以上の銅を生産する「足尾銅山の黄金期」を迎える。1916年(大正5年)には、足尾町の人口が最多を記録。38,428人。
昭和時代「画期的な選鉱と製錬」
第二次世界大戦中に激減した生産も、戦後は順調に回復。
1948年(昭和23年)には「重液選鉱法」を採用し、選鉱工程を機械化。1956年(昭和31年)にはフィンランドの「自熔製錬法」を導入。銅を省エネルギーで生産すると共に、製錬工程で生じる亜硫酸ガスから濃硫酸を製造するという画期的な技術を開発した。
その後、銅の輸入自由化による内外価格差の拡大や、鉱石の品位低下などで経営が悪化。1973年(昭和48年)に足尾銅山は閉山となった。360年間続いた歴史は、ここで幕を閉じる。
参考資料
- 足尾銅山観光、各種案内板
- 『みんなに役立つ足尾銅山の歴史』坂本 寛明 著(2023)←足尾銅山観光お土産所で販売
足尾銅山観光の基本情報
- 住所 栃木県日光市足尾町通洞9-2
- 電話 0288-93-3240
- URL https://www.city.nikko.lg.jp/asiokankou/kankou/ashio/taiken/douzan.html
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