高崎駅の西側、烏川沿いに、かつて高崎城があった。前身は正長元年(1428年)に築城された和田城。徳川家康の命を受けた井伊直政が改修にあたり、高崎城とした。「高崎」の地名は、龍広寺の住職「百庵」の進言によるもので、「成功高大(成功はどこまでも高く)」の意が込められているという。龍広寺は城址公園の南側にあり、同じく井伊直政の創建である。
目次
高崎城地
高崎城址公園
乾櫓(いぬいやぐら)と東門
当時の遺構として、乾櫓(いぬいやぐら)と東門が残る。どちらも市内個人宅に置かれていたものを、移築・復元したものだ。群馬県内に唯一残る城郭建築だという。
歩兵第十五連隊の碑
1873年(明治6年)の廃城令で、高崎城とその敷地は陸軍管理の兵営地として転換された。建築物はあらかた取り壊され、「歩兵第15連隊」が駐屯。日清・日露戦争で活躍するが、太平洋戦争で全員玉砕したという。その碑が城址公園内に設置されている。
【参考】
『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典10 群馬県』(人文社 1997)
『群馬県の歴史散歩』(山川出版社 1994)
高崎市教育委員会 各種案内板
コメント