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碓氷峠と鉄道の歴史【前編】難攻不落の碓氷峠

碓氷峠、めがね橋

明治時代に入り、産業の発展とともに、鉄道網は急速に広がっていった。上野から直江津(新潟)をつなぐ本州横断鉄道も、その建設が急がれていた。すでに上野~横川、軽井沢~直江津間は開通していたが、真ん中の「横川~軽井沢」は手つかずのままだった。なぜだろうか。

目次

急峻の碓氷峠

碓氷峠アプトの道

理由は「碓氷峠」にある。碓氷峠の急峻が、行く手を阻んだ。

最大勾配は66.7‰(パーミル)。「‰(パーミル)」は勾配を表す単位で、水平距離で1000メートル進む間に、66.7メートル登らなければならないことを示す。具体的な角度は、車両の長さで考えるとわかりやすい。たとえば機関車と客車で14両、全長280メートルの車両なら、先頭と最後尾で約16メートルの高低差が生じる角度だ。建物なら5階相当になる。

当時の技術では、この急勾配を克服することができなかった。

「アプト式」の採用

この打開策として採用されたのが「アプト式」だった。通常のレールに、もう1本、ノコギリ状のギザギザとしたレール(ラックレール)を加え、機関車の歯車と噛み合わせる方式だった。ドイツの登山鉄道で開発された技術で、開発者の名前をとって「アプト式」と呼ばれた。

碓氷峠アプト式鉄道
碓氷峠アプト式鉄道

大規模な建設工事

鉄道の敷設工事は、明治24年(1891年)3月に始まり、明治25年12月に終了した。工事期間はわずかに1年9カ月。横川~軽井沢間の11.2キロは、「18の橋梁」と「26のトンネル」で通り抜けられるようになった。

それだけの数の山を抜き、橋をかけ、レンガを組んだ。めがね橋(第3橋梁)ひとつで、200万個のレンガが使われたという。現在「アプトの道」で横川側の10個のトンネルを歩くことができるが、その橋梁群・トンネル群を見れば、想像を絶する大工事だったことがわかる。人海戦術だったというが、数十万人規模の動員ではなかったろうか。

この建設工事で500人が亡くなったという。殉職碑がアプトの道に建てられている。

碓氷峠アプトの道
碓氷峠アプトの道、殉職碑

【参考】
『鉄道とトンネル』小林寛則/山崎宏之 著(ミネルヴァ書房 2018)
『廃線探訪入門』旅と鉄道編集部 著(天夢人 2019)
『鉄道廃線トンネルの世界』花田欣也 著(天夢人 2021)

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