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碓氷峠と鉄道の歴史【後編】蒸気から電気機関車へ

碓氷峠鉄道文化むらEF63走行中
目次

碓氷峠「アプト」の時代

明治26年(1893)、碓氷線(横川~軽井沢間)の営業運転が始まった。

蒸気機関車は上りも下りも常に横川側に連結され、横川から軽井沢へ向かう上り勾配では押し上げ、帰りの下り勾配では車両の重さを押しとどめるように踏んばった。この連結方法は、平成9年(1997)の廃線まで変わらなかった。

当時の横川~軽井沢の所要時間は、下り78分(上り勾配)、上り75分(下り勾配)。アプト式ゆえにスピードは出ず、平均時速は8キロと大変に遅かった。

蒸気機関車の吐き出す煙はひどかった。碓氷峠のトンネルは総延長でおよそ5キロ、しかも低スピードという悪条件。トンネル内は煙だらけの灼熱地獄と化し、乗務員の吐血・窒息・昏倒事故が相次いだ。

碓氷峠アプトの道、トンネル

碓氷線の電化は急務となり、明治45年(1912)、横川側に横川火力発電所と丸山変電所、軽井沢側に矢ケ崎変電所が建設された。交流6600ボルトが直流600ボルトに変換され、電気機関車「10000形(EC40形)」が動いた。

大正8年(1919)には国産初の電気機関車となる「10020形(ED40形)」、昭和8年(1933)には「ED42形」が誕生した。走行時間は下り42分(上り勾配)、上り46分(下り勾配)と30分近く短縮された。

ED42は最期のアプト式で、昭和38年(1963)まで走行した。操業時から実に70年間、アプトの時代であった。

初期に活躍した蒸気機関車は、大正10年(1921)の時点で全廃されている。

碓氷峠鉄道文化むらED42
碓氷峠鉄道文化むらED42

「アプト式」から粘着運転へ

その後レジャーなどで利用客が増えると、遅いアプト式では対応しきれなくなった。昭和36年(1961)から改良工事が始まり、現状のルートの複線化、アプト式から通常の「粘着運転」へと切り替えが行われた。

本線機関車としてEF62形(高崎~長野専用)、補助機関車としてEF63形(横川~軽井沢専用)が導入された。EF62ベースのEF63は、勾配用のブレーキや電磁吸着ブレーキなど制動面が強化されていた。協調運転できるのも特長で、自車両だけでなく連結車両のブレーキ操作まで行うことができた。

碓氷峠の上り下りには、このEF63が「必ず2台」連結された。所要時間は下り17分(上り勾配)、上り24分(下り勾配)となり、安全性とともにスピードも向上した。

碓氷峠鉄道文化むらEF63走行中
碓氷峠鉄道文化むらEF63走行中
なぜか走っていたEF63、2両(^^♪

碓氷峠が刻んだ104年の歴史

平成9年(1997)、長野新幹線の開業と同時に、碓氷線は廃線となる。信越本線(碓氷線)は横川止まりとなり、「峠のシェルパ」と呼ばれたEF63ともお別れになった。

トンネルと勾配に苦しんだ碓氷峠。その歴史は104年に及んだ。

参考資料

  • 『鉄道とトンネル』小林寛則/山崎宏之 著(ミネルヴァ書房 2018)
  • 『廃線探訪入門』旅と鉄道編集部 著(天夢人 2019)
  • 『鉄道廃線トンネルの世界』花田欣也 著(天夢人 2021)
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