和田英(わだ・えい)は信州松代出身で、操業初期の富岡製糸場に入場した工女だ。当時の様子を描いた『富岡日記』は、他に類のない一級の資料として、さまざまな書籍の【参考文献】として用いられている。
『富岡日記』は二部構成になっており、前半が富岡製糸場の「富岡日記」、後半が六工社(西条村製糸場)の「富岡後記」となっている。英は富岡製糸場で修業を積み、その後、地元の六工社で指導にあたることになっていた。明治政府は、富岡製糸場を模範工場として設立し、その技術を広く日本全国に広めようとしたが、英はまさにその伝習工女だったのだ。
驚くのはその達筆具合で、富岡製糸場の情景に始まり、繭選りや糸取りなどの製糸作業、皇后・皇太后の行啓、山口県工女との争い、盆踊り、食事や寄宿舎の様子など、見事に生き生きと描かれる。その情景が目前に浮かんでくるような臨場感だ。
英はとてもまっすぐな人間だ。良いことは良い、悪いことは悪い、おかしなことはおかしい。随所で自分の思いを口にし、時に争ってしまう。そして懸命に技術の習得にあたり、努力し、負けない。人の気持ちを思いやり、家族を大事にし、愛し愛されることを常とする。語る言葉の端々に、人としての道理、強さや気品が垣間見え、とても感動的な本になっている。
富岡製糸場から民間の六工社へ舞台が移るとき、その設備の貧弱さや繭の悪さに、富岡工女たちは愕然とする。糸の取り方で経営陣と激しく対立もする。しかし英は一貫して富岡のやり方をかえず、量が減っても高品質の糸を取るよう経営陣に進言し、最終的に「生糸で六工社に並ぶものはない」と言わしめるほどの糸をとる。
富岡で学んだ技術は、生涯、英の誇りであった。「富岡は夢のような場所で、工女たちの檜(ひのき)舞台だった」と回想している。
(了)
コメント