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富岡製糸場の見どころ【1】 国宝・東繭倉庫

富岡製糸場、東繭倉庫
富岡製糸場の正門

富岡製糸場の正門から、立ちはだかるようなレンガ造りの建物が見える。東繭倉庫だ。レンガの壁はどこまでも続き、その大きさに誰もが圧倒される。

富岡製糸場の設立は明治5年(1872年)。明治政府は「富国強兵」「殖産興業」をスローガンとして、次々と官営工場を設立していく。富岡製糸場は、そのトップバッターだ。長さ100メートルを超えるレンガ造りの建物が3棟、繰糸場にはフランス製の繰糸器300釜が備えられた。その設備はケタ外れに大規模で、まさに明治政府の威信をかけた一大事業であったことがわかる。

目次

繭(まゆ)の巨大な貯蔵施設

東繭倉庫は、繭(まゆ)の貯蔵設備として使われていたもので、長さ104.4メートル、幅12.3メートル、高さ14.8メートル。この倉庫の向こう側にはもう一棟、双子の西繭倉庫がある。実際に繭を置いていたのは、通気に優れる2階部分だけだったようだが、それでも相当な広さになる。これほど大きな倉庫が必要とされたのは、当時は年に一度しか繭が収穫できなかったため、年間の操業で使う繭すべてを、まとめて保管しておく必要があったからだという。

富岡製糸場、東繭倉庫
富岡製糸場、東繭倉庫

建物の構造

東繭倉庫、西繭倉庫、繰糸場。この主要3棟はいずれも同じ作りで、「木骨レンガ造」「挟み梁」「トラス構造」が採用されている。

「木骨レンガ造」は、その名の通り、木製の通し柱とレンガ壁の組み合わせで、柱が屋根の重さを受け、壁には力がかからない構造になっている。通し柱の太さは一尺(約30cm)で、この柱を両側から挟み込んだ二重の梁を「挟み梁」という。「トラス構造」は屋根を支える小屋組のことで、部材を三角形で構成する。

これらの技術を用いることで、安定性が高く、強度にすぐれる「柱不要の大空間」を構築することができた。富岡製糸場が150年の月日を経ても、なお当時の美しい姿を残すのは、これらの巧みな建築技法によるところが大きい。

以下の写真は西繭倉庫の2階部分で、その構造がよくわかる。

西繭倉庫の挟み梁とトラス構造

東繭倉庫の1階部分

東繭倉庫の1階部分は、中央通路をはさんで、北側がガイドツアーの受付、絹製品の展示、休憩所となっている。通し柱の太さ、基礎石の大きさ、挟み梁や天井の構造、壁や窓ガラスなど当時の様子をうかがうことができる。

東繭倉庫の1階部分
東繭倉庫の1階部分

東繭倉庫の1階、南側はパネルが展示されている。映像スペースもあり、富岡製糸場の紹介ビデオが流れている。繰糸場、繭倉庫、ブリュナ館、検査人館、下水溝、鉄水槽など、富岡製糸場を構成する建物群の紹介や、トラス構造の仕組みなど丁寧に解説されている。30分弱と大変に長いが、基礎的な内容が網羅されているので、見学前に見ておけば、より理解が深まると思う。

東繭倉庫の1階部分

【補足】中央アーチのガラス戸

「明治五年」のキーストーンが埋め込まれ、富岡製糸場のシンボルともなっている中央アーチ。この両側のガラス戸を見た時、その傷みぶりに大変驚いた。数あるガイドブックの写真は、どれも綺麗に写っていたが、実物は違う。白の塗装がはげ、ささくれ立ち、地が出て腐りかけていた。設立から150年。傷みは避けようがないが、痛々しい。

富岡製糸場、中央アーチ
中央アーチ、ガラス戸

(了)

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