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江戸時代の「四大関所」碓氷関所跡

碓氷関所跡
目次

関所の役割

碓氷関所跡

関所は古くより、盗賊の取締り、人や荷の監視、通行税の徴収のため、主要な街道に設置されていた。

江戸時代に入ると「入鉄砲(いりでっぽう)」と「出女(でめ)」を対象に、厳しい取り締まりが行われるようになった。「入鉄砲」は武器の流入、「出女」は「江戸から出て行く大名の妻子」を指す。当時の江戸幕府は、各国大名の妻子を強制的に江戸に居住させ、人質とすることで、大名が反乱を起こさないよう制御していた。「出女」は、その妻子が国元に逃げ帰らないようにするため、「入鉄砲」は、江戸の防衛、治安維持のためということになる。

関所を通るには、必ず通行手形が必要で、関所破りや掟(おきて)破りは原則「死罪」とされていた。今では考えられないが、磔(はりつけ)や打首が行われた時代である。

四大関所

五街道を中心とする主要街道には、50か所余りの関所が設けられ、その中でも特に、東海道の箱根と新居(あらい)、中山道の碓氷(うすい)と福島は「四大関所」として江戸の防衛拠点となった。箱根、碓氷、福島は、狭く逃げ場のない険しい山間に、新居は浜名湖畔の舟渡場に設置された。

碓氷関所

碓氷関所跡

碓氷関所の歴史は古い。始まりは9世紀後半、醍醐天皇の平安時代までさかのぼる。当初は群馬と長野の県境「碓氷峠」に設置されていたが、1623年(元和9年)に現在の松井田町横川に移された。

碓氷関所は東西に門が置かれ、その間は約95メートル、両脇は木の柵で囲われていた。通行手形を改める番所や長屋が置かれ、番頭、同心、門番など約20名の役人が詰めていた。1869年(明治2年)の廃関令まで、およそ250年間、その役割を果たした。

現在、碓氷関所跡として残るのは「東門」のみで、門扉や門柱、屋根や台石など一部当時の部材を使って復元されている。

碓氷関所跡
碓氷関所跡

現在の四大関所

当時の四大関所のうち、箱根、木曽、新居は、今も当時の姿をうかがうことができる。

神奈川県、箱根の関所は、江戸時代の資料から、当時の建物や構造がほぼ明らかとなり、建物の復元や周辺の環境整備が行われた。番所や休息所、石垣など、すべての工事が完了し、公開されている。

長野県、木曽の福島関所も、資料や発掘調査により、敷地や施設の配置が確認された。番所やその内部の造りなど復元工事が行われ、関所としての姿を残す。

静岡県、浜名湖畔の新居(あらい)関所は、当時の番所や門がそのまま残る、日本唯一の関所である。

碓氷の関所だけが門のみの復元となり、残念ながら、その全体像をイメージするのは困難である。

碓氷関所の基本情報

住所 群馬県安中市松井田町横川573
電話 027-382-7622
安中市ホームページ https://www.city.annaka.lg.jp/

参考資料

『上毛かるた ゆかりの地 文化めぐり』群馬県文化振興課、2021
『群馬県の歴史散歩』群馬県高等学校 他(山川出版社、1994)
『図説 日本史通覧』(帝国書院、2023)

参考リンク

箱根の関所。現在の姿はもちろん、復元工事の様子なども細かく公開されている。訪れたくなる。

[blogcard url=”https://www.hakonesekisyo.jp/”]

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